《MUMEI》

 後ろを振り返り、オッサンの姿が見えなくなったのを確認して、私は徐々に走るスピードをゆるめていった。
 適当な木に手をつき、ゼェゼェと息を切らす。

「なんなの…あれ…あぁ…気持ち悪い…」

 思わず身震いをしてしまう。

 息が整ってきたところで、両腕の肘の内側に目を落とした。さっきオッサンを引っこ抜こうとしたときに濡れた部分だ。

 まだ濡れていた。水滴がぽつぽつ付いている。

 なんとなく、というかほとんど無意識に、濡れている部分のニオイを嗅いでみた。

「あれ?」

 無臭だった。

 オッサンの脇をおもいっきり抱えた時に濡れたのだ。もっとツンとする刺激臭を予想していた。

 だって脇だし。どう考えてもこれ脇汗だし。

 私はほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、脇汗であることには変わりは無い。何かで拭き取りたいが、あいにくハンカチのようなものは持っていなかった。

 私はため息をつき、両手をぶらんとさせたままゾンビのように歩き始めた。

「おや?見ない子だね?」

 しかし、そこで誰かに声をかけられたので、再び立ち止まった。

 振り向くと、そこには腰の曲がったお婆さんがいた。

 私はちょっとだけキョトンとしたが、すぐに軽く頭を下げた。

「あ、こんにちは」

 そういえばこの村の人と言葉を交わすのはこれが初めてだ。さっきの田所さんとかいうオッサンはノーカウント。

「今日、この村に越してきた美星です。私は茜っていいます」

 私が名乗ると、お婆さんは考える仕種をして思い出したように言う。

「あぁあぁ、そういえばそんな話を聞いていたね。今日だったかい、そぉかいそぉかい」

 お婆さんはふぉっふぉっふぉと笑う。一体なにがおかしいのか。

「なんにもないところで、びっくりしただろう?」

「はぁ…まぁ…」

 頭をかいて苦笑する。

「都会に比べてなんにもない村だけど、住んでいればすぐに慣れるさ。住めば都とはよく言ったものさ」

「はぁ…」

 どうやったらこの村が都になるというのか。

 家から歩いて10分圏内にコンビニが無いって時点で気が遠くなる。

 その後お婆さんは、どういうわけか自分の若い頃の話をしだした。近所の悪ガキ達と泥だらけになるまで遊んだだの、駄菓子屋に忍び込んでどぉのこぉのだの、何をきっかけにそんな話になったのやら。

 初対面でしかもお婆さんだから、無下に話を切るわけにもいかず、私は所々で適当に「はぁ」だの「へぇ」だのと相槌をうっていた。

 話は長くなり、とうとう思考が「今日の晩御飯なんだろう?」ってな感じになってきだした時、お婆さんは今思い出したとでもいうように「ところで」と話を切り替えてきた。

 私はそれでハッとして、適当に向けていた視線をキッチリとお婆さんに向けた。

「田所さんにはもう会ったのかい?」

 お婆さんは言った。

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