《MUMEI》
其の四
 「……?」
薄紅に覆われていた視界が漸くはっきりとすれば
豊原の姿は見慣れ過ぎた自宅にあった
辺りをくるり見回して
自分の部屋だと確認し、膝を崩す
戻ってきたことへの安堵か、それとも
「……わがまま、言ってみれば良かったかな」
せめて自分の思いを伝える位すれば良かったと
今更に後悔し、だが本当に今更だと豊原は首を振った
考えてばかりいると気が滅入る、と
室内に籠っている様な気がする湿っぽい空気を入れ替えようと窓を開く
眼下に広がるのはやはり見慣れ過ぎた景色
だが其処に一つ、見慣れない彩りを豊原は見つけた
「……あの、桜」
枯れ木だったソレに見える彩りに
豊原は踵を返し、部屋を飛び出していた
「あら、加奈。帰ってたの。お帰り」
「ただいま!行ってきます!」
母親の言葉も適当にあしらい、外へ
桜木の元へと走ってて向かえば其処に
満開の薄紅
ソレまで花を付ける事をしなかったソレに
道行く人々が皆一度は脚を止め花に見入って行く
それを豊原も眺め見ていると
「あら、加奈ちゃん。今日和」
顔見知りの女性が近くを通り掛かり
豊原は慌てて姿勢を正し一礼をする
「あら、この桜、花を付けたの」
豊原へ挨拶を貸してやった後女性は徐に桜木を仰ぎ見る
「まだ、生きてたの。とても奇麗ね」
すっかりこの木の存在を忘れていた、、と
感慨深気に暫く眺め、そして用事があるからと名残惜しげにその場を後にしていた
その背を見送り、豊原は改めて桜木へとまた向き直る
「……私、ちょっとは頑張った、かな」
木の幹へと手を触れさせ、そして額を付ける
縋る様に身をゆだねた、次の瞬間
突然に背後から誰かに抱きすくめられた
何事か、と慌てて首を巡らせて相手を見てみれば
つい先程、意を決して別れを告げたはずのヒト
「……何で?」
豊原はん格でも見ているのでは、と眼を瞬かせる
だがどうやら錯覚でも幻でもないらしい相手は
普段通り、困った様な笑みを豊原へと浮かべて見せた
「あんな顔を見せられて、ほっておけるわけがないだろう」
だから追ってきてしまったのだ、と刀弥
あの別れの瞬間、豊原自身は心配をかけまいと懸命に笑みを作っているつもりだったのに
「……私、笑えて無かった?」
「ああ」
「でも、刀弥、追ってきたって……」
どうやってこちらに来たのか、そう訊ねようとした豊原へ
「……桜木が、色々計らってくれた」
その言葉を遮るかの様に刀弥の唇が豊原の額へと触れてきた
軽く触れるだけのソレに、豊原は一瞬何が起こったのか解らず
だがすぐに理解し顔を真っ赤に
暫く俯いてしまっていた豊原だったが、徐に踵を返し
刀弥へ、お返しだと言わんばかりに唇を重ねた
「……華巫……加奈!?」
驚いたように、豊原の名を呼ぶ刀弥へ
だが正面から見据えた豊原の顔に、すぐ笑みを浮かべて見せた
満面の泣き笑い
豊原は肩をしゃくり上げながら
「来年も、再来年も、ずっと一緒にこの桜、見てくれる?」
その存在を忘れる事がない様に、と
上目遣いで子供の様に強請られてしまえば
刀弥に否を唱える事など出来る筈もない
僅かに肩を揺らした刀弥が突然に豊原を肩の上へと担ぎあげ
そのまま身も軽く桜木の上
下から見上げるよりも一層濃い薄紅の中で
花弁が触れる様な柔らかな口付けが唇に降ってくる
「……わかった」
意を決した告白に帰って来たのは
素気ないと感じてしまう程、短い言葉で
だが豊原には、それだけで十分だった
『……華巫女。……有難う』
刀弥の肩へと凭れ掛かり、舞う花弁を見ていた最中に聞こえてきた声
見回して見てもその姿を見る事は出来なかったが
豊原は舞う花弁へ笑みを浮かべて見せながら
「……忘れたりなんて、しないから」
それだけ言ってやると
豊原は傍らにある安堵する温もりに全てを委ね
ゆっくりと眼を閉じたのだった……

前へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫