《MUMEI》
悪夢
いつしか時計は0時を回っていた。
「もう…こんな時間か…」
通勤時に着て来た皮ジャンを羽織り、事務所の明かりを消す。
(明日も…仕事だ…)
体を横にして眠ろうとする…だが、眠れるはずもなかった。

私は、地震発生時の事を思い出していた。
(あの時…脚立から降りるのが、僅かでも遅かったら…いや、作業が長引いていたら…)
恐らく…私は脚立から転落し、作業していた室内の状況を考えると、大怪我は必至…。
下手をしたら…この世に居なかったかも知れなかった。
そう思うと、背筋に一瞬…冷たいものが走った。
それは、産まれて初めて感じる『死への恐怖』だったのかも知れない。
(…俺はいい…。だが…あの津波の犠牲になった方々は……)
どれだけ無念だったろう…犠牲者の無念を思うと、胸が押し潰されそうになった。
今自分が生きている事に、強い罪悪感すら感じていた…。

いつしか私は眠りについていた。だが…明け方…私の携帯が不気味な警報音を発した…。
「…何だ?」
寝ぼけ眼で携帯を開くと、そこには『緊急地震速報』の文字が…!
「!!」
次の瞬間、再び地震が襲った。
(でかい…!…こいつも余震か!?)
すぐさまテレビをつける。だが、震源地を見て、私は「あっ?」と声を上げた。
(長野県…震度6強だと…!?)
昨日、最大震度7(宮城県栗原市で観測)の…未曾有の大地震があったばかりなのに、それに次ぐ大きさの地震が、今度は長野県で…。
(悪い…夢だろ…)
血の気が引いた…本気でそう思いたかった。
だが…それから半日も経たずに、更なる悪夢が現実になろうとは、この時は思ってもいなかった。

午前6時を過ぎた頃、会社の携帯に着信があった。上司の小笠原さんだった。
「おはよう隆弥…お疲れ様。そっちはどんな状況だ?」
「壁のボードに亀裂が入りましたが、大きな被害はありません。小笠原さん、今新宿ですか?」
「ああ、みんな事務所に泊まり込みだよ…」
小笠原さんの声は、やや疲れていた。各現場の状況把握に忙殺されたのは、容易に想像出来た。
小笠原さんが続けた。
「お前も今日は、最低限やる事やったら、帰れ」
「はい、そうさせてもらいます」
電話が終ると私は、歯ブラシとタオルを持ってトイレに向かった。
トイレの洗面台で顔を洗った後、鏡に映った自分の顔を見て、苦笑混じりに呟いた。
「ひでぇ…面だな…」
精神的な疲れが、ありありと表情に出ていた。
その後、出勤予定だったパートさんに連絡し、今日予定していた特別作業の中止を伝えた。
私は一人、日常清掃作業を始めた。

午前10時…仕事に一区切りついて控室に戻る私に、声が掛かった。
「お疲れ様です」
声の主は、管理補完業務に来ていた、元請け会社の春日さんだった。
「春日さん…おはようございます」
「おはよう山口さん、昨日はどうしたの?家帰れなかったでしょ?」
「ええ…控室に泊まらせてもらいましたよ」
「そうかぁ…」
「とりあえず今日は、やる事やったら帰ります」
「うん、それがいい」

一旦控室に戻ったものの、気掛かりな事があった。私は控室を出て、エントランスに向かった。

(やっぱりか…)
エントランスの床には、白い粉状の物が、壁際に沿って散らばっていた。
壁の大理石ボードの継ぎ目から落ちて来たのだろう。床が黒御影石のため、余計に目立つ。
その足でエレベーターに乗り、上の階の様子を見に行く。二階から上はタイルカーペットだが、やはり石膏ボードの粉や、小さい破片が落ちていた。
さらに、非常階段を見に行く。こちらも同様の状況だった。
原因は、明け方の地震だった。直ぐに掃除機を用意し、各階の床の掃除機掛けを始めた。階段はハンディタイプの掃除機で作業を行った。
作業は一時間程で終ったが、掃除機の中のゴミを捨てようとして、ギョッとなった。
通常、吸引した埃は黒に近い灰色をしているが、今回は乳白色に近い灰色をしていた。
通常では考えられない色だった。
(こいつも…悪い夢だ…)
…紛れもない現実なのだが、そう思わないと、やってられない気がしていた。

午後1時、ようやく仕事を終えて帰路に就いた。この日、歯医者の予約をしていたのだが、キャンセルした

着てきた革ジャンと鞄が、何故か異様に重く感じられた…。

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