《MUMEI》
*Tuesday*
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―――火曜日。

東條さんが提案した『恋人シュミレーション』(勝手に名付けた)の記念すべき(?)第一日目である。

朝、あたしはバイトの支度をしながら母に言った。

「今日、夕飯いらないから」

実家が大好きなあたしは、バイトが終わるとほとんど例外なく直帰するのでよほど珍しく思ったのだろう。母は意外そうな顔をした。

「どうして?」

母の問いかけにあたしは満面の笑顔を装う。

「東條さんとお会いする約束をしてるの、映画のチケットが手に入ったんだって」

誤魔化しても良かったのだが、あえて東條さんの名前を口にしたのは、母の隣にいる祖母の視線を充分に意識してのことだ。
案の定、祖母はあたしの返事を聞き、満足そうに人知れずニヤリと笑った。案外チョロイものである。

東條さんの名前に母も安心したのか、嬉しそうな顔をした。あらそう、と声を弾ませる。

「東條さんにワガママを言って困らせないようにね」

なんだそりゃ。

「言わないよ、コドモじゃあるまいし」

母の忠告を笑って一蹴すると、あたしは家を出た。




バイト先の美容院は、自宅からわりと近くにある。

「おはようございまぁす」

サロンに入ると同時に、やる気のない声で義務的に挨拶をする。それに対するスタッフの声もやはり覇気のないものだったが、いつもこんな感じなのでとくに気にならない。

あたしは私物をロッカーにしまい、持ち場である受付カウンターに入った。今日の予約者の確認をしながら、ふと気づく。

「今日、松永さんお休みでしたっけ?」

ちょうどカウンターの近くで床を掃除していた女性スタッフに尋ねてみる。松永(マツナガ)というのは、このサロンの男性スタイリストのひとりだ。指名予約はないが、今日は出勤のはずなのに姿が見えない。

あたしの問いかけに彼女は、たった今そのことに気がついたというような顔をして頷いた。

「休ませてほしいって、朝早く連絡あってさ」

「何かあったんですかね?」

「お子さんが熱出しちゃったんだって。奥さん、仕事休めないから自分が…って。ホラ、あの人奥さんに頭上がらないじゃん?」

家庭があると大変よねぇ、と彼女は他人事のように屈託なく笑った。



『お子さん』

『奥さん』

『家庭』



「…ホント、大変ですねぇ」

あたしは完璧な笑顔を作ってみせて、それから彼女との会話を適当に切り上げるとすぐに業務に戻った。

胸の奥を、キュッときつく絞られるような鈍い痛みに気づかないフリをして。



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