《MUMEI》 終旅人は宿を出て姿を消しており、卵殻庭の港に佇んでいた。 「あなただけでしたね。わたしから卵を買わなかったのは」 只一人現れた宿の給仕の娘を、苧環が振り返る。 「もう薔薇を貰ったもの」 「あなたのおかげですね。ここでのわたしの商売が繁盛したのは」 穏やかに話す苧環が、懐から拳を取り出して、手のひらが上になるようにしてゆっくりと開いていく。 給仕の娘は、微かな既視感に何度も瞬きをした。 「お礼です。あなたへの」 苧環の手のひらには卵がのっている。 彼は口元に笑みを湛え、卵の登頂部を数回叩いた。 出て、おいで。 優しく、誘う声がしたような気がした。 しばらく、簡単に卵殻が割れて姿を現したのは、天然色の花ではなかった。 卵色の小さなひよこだったのである。 「かわいい」 「どうぞ。差し上げます」 贈り物を受け取った給仕の娘は、只、一粒の涙を零した。 卵殻庭がどのような運命を辿ったのかは、判然としないが、娘は、ひよこを大切に持ち帰ったという。 卵殻庭に、苧環が姿を現すことは二度となかった。 終幕 前へ |
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