《MUMEI》
ひまわり2
「たまに、あるの。こういう事」
ライブが終了した店のカウンターで、マスターからの差し入れのジンジャエールを一口吸い飲んでからつぶやいた。
「えっ?」
ピアノの彼はきょとんとしてる。
「思い切り入り込んで歌っていると、一瞬、何を歌っているのか、リズムとかわからなくなるの」

「あ、そういう事ありますよね」

「一瞬やばいと思ったけど、ほんの一瞬の間だった。ちゃんと戻ってこれた」

「でも、僕、一緒の世界を共有できてるって感じで、そういうのいいですよ」

「なんか、全てをえぐりとるようなピアノだったね」
「そうです、えぐりとります」

ジャズとは、必ずと言っていいほど、二度と同じように歌ったり演奏したりする事はない。
毎回、違う状況、音の鳴り方、自分のコンディション。その中で自分を解放し、ルールから逸脱しないように理性も保ちつつ、自由に遊ぶインプロビゼーションなのだ。

無限に広がる音の空間、一拍の長さ、音の高低、ピッチ、フレーズの選択。自由と引き替えに慎重にならざるをえない。そう、それは突然、宇宙空間の中に放り出され、孤独と戦いながら、瞬時にして選択していく。そのやり方はいろいろ。理論で攻める人、或いは感覚で攻める人。
音感のいい、そのピアノの彼はきっと後者の方。そして彼の音楽はまだ何にも染まってない純粋なもの。
だからこそ、このようなユニットが出来上がったのだ。それも、彼に出会うまでは歌うつもりもなかった“ひまわり”を歌うことになるなんて…。
… … … … … … 「いい曲だからピアノソロで弾いたら」
と先輩面して譜面を渡したのがきっかけだった。
「…?歌わないんですか」
あまりにも美しく、そして暗く、感情を込めやすいから、歌うものなら芝居がかってしまいそうで。芝居がかるのは悪くないが、度がすぎると聴いてる人がドン引きするだろう。以前、私がピアノの仕事もよくしていた時にかならずリクエストしてきたお客がいた。その客がよくそんなそんな事を言っていたので、それが頭に残っていたのだ。
躊躇する私に投げ掛けられた。
「歌ってみたらどうですか」
若いピアノの彼に言われて心が動きだした。

なんて新鮮な感覚!

伴奏者は単にヴォーカリストが差し出した譜面に忠実に従う事が多いこの仕事で、こんな風に言ってくれるなんてめったにないかも!学生時代にバンドやってた時、みんなで集まって曲決めしてる時以来だ。

出会いとはこんなものだ。
ちょっと賭けみたいなものだったけど、おもしろいかも。
それが、きっかけだった。… … … … … …

飲み干したジンジャエールのストローの先についたかすかなリップグロスを指で拭い、
「今日の残骸ね…」
「…は?」
「いやいや、音で会話してたから、波動も来てた『俺を感じろ』ってね」
またまた彼は不思議そうな顔をしてた。
時計を見て気が付いた。12時半をまわっている。
「もう、遅いから帰りましょう。お疲れ様。」
「お疲れ様でした。また、お願いします」
彼は礼儀正しい。

それぞれの生活の場へ。二人の音楽家が夜の街をあとにした。

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