《MUMEI》
道連れもはじまり
 あ、なつかしい。

絵に描いたような夕焼けが少しづつ地平線に引き寄せられていく時間、ちいさく落ちた少女の声が青年の意識をさらった。
青年はほうけていたわけではない。むしろ少女を注視していて、だからその声にはっとなった。
未だ町から距離のある街道に人は少ない。時おり馬車や騎乗した商人が急いた速度で町に向かっていくのを見送ったが、ふたりは彼らに声をかけられてもそれを断った。
便乗させてもらうほうがはるかに楽だし、早く町にたどりつけることは分りきっているのだけれど。
「ね、これはじめて見るでしょ?」
取りたてて何も見当たらない平原に通る街道の、とある場所。無理やりにでも名前をつけようとするなら文字通り「身の丈ぐらいの岩がある場所」だろう。
そして少女が屈みこんで嬉しそうに笑っているのはその岩陰で、小さな手の指先には薄紅や乳白色の、なんとも素朴な花がひっそりと暮らしていた。
日中は日当たりがよく、夜半に吹きはじめる風にはあたりにくい場所にその花は咲いている。
誰が教えたわけでもなく、ましてや教えられる方法もないのに花は自然とこの場所を選んだようだ。
「初めて見た?これ」
「うん。こっちに来てからははじめて見た」
「ああ、そういうこと?そうだよね。だって昔散々この花で遊んだ記憶があるから」
そうだよ、と少女はまたちいさく言い、笑う。
青年もそれにつられたように浅く笑った。
 取りたてて何も見当たらない、平原に通る街道のとある場所。昔話ができるほど宿命も義務もありはしない旅。
ふたりは日々を過ごせる分だけの収入を先々の町でまかない、噂も届かないような辺境にも足を向ける。そしてそこに暮らす人たちの言葉を集め、話を聞き、少女はそれを
分厚い空書に書き綴る。三日ほど滞在してはまた次の町や村を目指す。その繰り返しだった。
生まれ育った故郷の空と大地は遠く、時間すら違っているのではないだろうか。そう思わせるほどに多くの距離を歩いてきた。
けれど幼さの残る輪郭には不釣りあいな眼差しを持つ少女と、その少女を静かに見守る青年は、ただひたすらに時の流れを待っていた。
「おなかすいたね」
「うん。まだ町まで時間かかると思うけど…さっきの人たちに乗せてもらえばよかったかな」
「ごめん、私があっさり断っちゃった」
花のそばに屈んでいた少女は立ち上がりながら笑う。
小さく肩をすくませた青年は眉根を上げておどけるが、”気にしていない”という音のない言葉以外、相変わらず急いた空気は微塵も生まれなかった。
「行こうか」
「うん」
うるさく音をたてそうな腹にもう一度力を入れ直して足を動かす。太陽はさっきよりも地平線に引き寄せられていて、きっと半刻もしないうちに没するだろう。
少女が一度だけ、岩陰の花を振り返ったけれど歩みは止めなかった。夕焼けの光を受けてなびく髪は青年に豊かな実りを思わせて、無性に懐かしさが胸を満たした。
 いつか、いつかは帰ることのできる故郷。
黙々と前を見て歩く少女の存在を感じながら、せめて命が尽きる前には帰ることができればいいと青年は思った。
今は少女が覚えている記憶もいつかは薄れる。薄れて、なくなってしまうかもしれない。
だから本当は今すぐにでも帰りたかったけれど、そうすればなくなってしまうのは少女の存在自体かもしれなくて。
それだけは心の底から恐怖を覚えるから、ふたりは―青年は、少女を連れて故郷を目指すことはできなかった。

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