《MUMEI》

 「……くも。八雲!」
身体を強く揺さぶられ、市原は失った筈の意識を取りもどしていた
目覚めてすぐ、自身の掌をまじまじと眺め見る
自身の、手だった
「八雲ー!起きてるかー!」
呆然と自身の手を眺め見るばかりの市原へ
目の前で手を振って見せたのは
影に捕らわれてしまった筈の相方
だがその姿は影に染められてしまう前のソレで
一体どうなってしまっているのか、と
市原は相手の顔をまじまじと眺め見る
全ては悪い夢だったのか、と
溜息に肩を落とした、その直後
市原の視界が濃い黒に染まっていった
「――!?」
同時に感じた激しい吐き気
胃の内容物ではない何かが食道を通り逆流してくる
「だ、大丈夫か!?やく――!?」
掛け寄ろうとした相手の脚が瞬間に止まった
とうぜんだろう。市原の口元を伝ったモノは真黒の何か
胃液でも、その内容物でもなく、血液でもないそれに
市原自身、未だに吐き出しながら眼を見開いていた
だが自分自身の意思では止める事など出来ず
吐瀉物に血液混じりの胃液が出始めて漸く治まった
「……悪い。大丈夫」
床をすっかり汚してしまったソレを脱いだ上着で拭きとり
その上着をゴミ箱へと放り入れると市原はその場を後に
外に出てみて今、自身が何所に居るのかを理解する事ができた
自身が写真提供によく出入りする出版社
目になじむ景色に、だが何故か安堵する事が出来ない自身が居て
踵をゆるり返すと、自宅アパートがある方へと歩く事を始める
早く帰って一人になりたかった
あの出来事は全て夢だったと思い込みたくて
漸く自宅へと帰り着けば
若干手荒く戸を締め、そのまま三和土へと座り込む
「……夢、だ。あれは悪い夢だった」
そう何度も自分へと言い聞かせ
だがそうではない、と言わんばかりに身体は小刻みに震えだす
その震えを何とか止めようと自らを抱きしめた
次の瞬間
「……恐い、か?こんなにも震えて」
背後から唐突に現れた腕に抱かれる
耳元で鳴る声、すぐ傍に感じる吐息
恐々とそちらを向いて直れば
一瞬にして覆われてしまいそうな程に濃い黒の眼が其処にあった
「ほ、むら……?」
眼を、逸らしてしまいたかった
現実だと認めたくない、現実で合って欲しくなかった、と
だがそうしようと行動に出るより先に
焔の手が血腹の顎を捕らえる
「突然目の前で消えてしまったので、驚いた」
全ては悪い夢だと思い込もうとしていたのに
目の前の歪な笑みがソレを認めない
「逃れられるとは思わない事だ。お前は最早陽の元では生きられない」
「……嘘、だ」
「俺がお前にこんな嘘をついてどうする?己の身体を、良く見てみる事だな」
手首を掴まれ、そのまま目の前へと突き付けられる
見えたソレはすでにヒトとしての皮膚の色を失い
真黒な影に覆われてしまっている
「何、で……?」
「お前は影法師。この先、此処にあり続けたいと願うならば」
途、不自然に辞言葉を区切ると
焔は徐に市原の身体を黒い布で覆う事をする
何をされるのか、不安に感じたのも束の間
色を奪われた筈の皮膚が、その黒布の下ではヒトの色をしていた事に少しばかり安堵していた
「……僕のモノになればいい。そうすれば守ってもやる」
市原の身体を背後から抱き、耳元での声
ソレはひどく耳に甘く響き、市原の意識を朦朧とさせる
捕らわれてしまう、もう逃げられない
諦めにも似た感情に無意識に頷いて返した
「……いい子だ」
段々と薄れ行く意識の中
見えた焔の浮かべた微笑は恐ろしい程綺麗に見えた……

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