《MUMEI》

 「……くも。八雲!」
頬を打たれる僅かな刺激に、市原は失った筈の意識を取り戻していた
目覚めて見る景色は意識を失う前に覚えのあるソレとは全く違い
すぐ近くには、慣れ親しんだ相方の姿さえあった
市原は自身の手の平を徐に眺めながら
「……何とも、ない?」
一人言に呟く
確かに自分は境としてひなたに身を委ねた筈なのに、と
横たえていた身体を起こすと膝を抱え蹲る
見れば其処は懐かしささえ感じられる自宅
時刻は普段ならば仕事を戴きに出版社へと出向いている頃だった
「おい、八雲!何寝ぼけてんだよ!」
顔を伏せたままでいる市原へ
相方は顔を覗き込み、市原の頭を小突く
微かな痛みに顔を上げ、相方の姿をまた確認すれば
今は現実なのだと、実感する事が出来た
あの出来事は一体何だったのだろうか
夢というには鮮明で、現にしては朧けたその記憶に
市原は無意識なのだろう、視線をまた下げ
部屋に差し込んでくる陽が床に作る自身の影を確認していた
「……普通の、影だ」
自分自身が此処に在るという証拠に、ホッと胸を撫で下せば
同時に涙が一筋、頬を伝う
一度流れ始めたソレは止まる様子はなく
市原の頬をすっかり濡らしてしまった丁度その時
背後から、突然に抱かれた
「なっ――!」
突然のソレに、何をするのかと向いて直ろうとすれば
相方はソレを遮るかの様に首筋へと頬を擦り寄せてくる
「何、してんだよ……」
「……影、法師」
怪訝な顔をしてしまえば
途端、相方の声色が全く別の人物のソレに変わる
何所かで聞いた事のあるその声に、僅かに眼を見開く市原
ゆるり向き直り、相手の顔を伺ってみれば
「……影、早」
影凪に食われ、消えてしまった筈の影早が其処に居た
何故、どうして此処に
そう問うより先に、影早の手に顎を掴まれ上向かされる
「なっ……!?」
何をするつもりかと喚くよりも先に唇を塞がれてしまった
執拗なソレに息苦しさを覚え
何とか解放されたいと背を酷く殴り付けてやれば漸く離れ
どうしてか満足気な笑みを浮かべた影早の顔とぶつかった
「……本当の、影になれた」
「は?」
「お前は俺を一度喰っただろう?お前の中に残る俺が、俺をお前の影にと引き寄せた」
言われて、市原は脳裏に嫌な映像を見る
自身が黒い何かを貪り喰っている様
「……う゛」
鮮明に見えてしまうソレに吐き気を覚え口元を押さえる市原
身体を丸め、蹲るその背を影早は柔らかく撫ぜ始めていた
「大丈夫だ。もう、大丈夫」
「何が、だよ……?」
唯大丈夫ばかりを繰り返す影早へ
市原は睨む事をしてやれば
「お前は、境になってヒトでは無くなった」
突き付けられる、現実
瞬間市原は言葉を失い、だがすぐに苦笑を浮かべ始める
「やっぱ、夢じゃ、なかった。俺、俺は……!」
苦い笑い声は段々と涙声に変わっていく
市原自身は何も変わったつもりなど無いのに
それでも自分はヒトではなくなった、と
その現実を目の前に突き付けられたのが辛くて堪らなかった
「何で、俺だったんだよ……。答えろよ!!」
八当たりに怒鳴りつけてしまえば
だが影早は表情一つ変える事はなく
「……お前があの時、あの、村を訪れたからだ」
凄く単純な理由を口にされた
だがあの時、村を音zれたのは市原だけではない
相方と一緒に居たのになぜ自分だけが、と更に問うてみれば
「……解らない。けど多分、互いに影が繋がれていたから」
何とも、解らない返答
怒りの余り、言い返そうとした市原を遮り
影早は更に言の葉を紡ぐ
「……俺がお前の影で居る限り、お前をヒトとして生かしてやる」
それならばいいだろう、と見返りを求めるかの様な語尾
その見返りとは一体何なのか
問うより先に影早の腕に抱かれていた
「だから、お前の影として、生かしてほしい」
本物の影に、と望んでいた影早
ヒトとして生きていたいと心根では望む市原と、影でありつづけたい影早
利害は、一致していた
「・……好きに、すりゃいいだろ」
半ば自棄を起こし、そう返してしまえば
影早は子供の様な満面の笑みを浮かべ、市原の身体を抱き返していたのだった……

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