《MUMEI》

耳のあった穴からどろりと血を流しながら、クロノスがよろよろとゼウスに向かって近づく。
猛禽のように鉤形(かぎがた)に曲がった指先が、ゼウスに伸びてくる。
「あの女は我が天津神族にとっては、存在そのものが呪いのようなものじゃよ。あれはおそらく、アザトースの血を引く者じゃ・・・・」
クロノスはふと立ち止まり、たった今初めて気がついたように、血を流す耳穴に触れ、掌にべっとりこびりついた赤い液体を、不思議そうに見た。
その血をゼウスの端正な顔に塗りつける。
ゼウスはそうされながらも、無表情に父を見下ろしている。
「天津神族が『あれ』にとりつかれている限り、いづれは滅ぶぞ、我々は」
「世迷言を。滅ぶのは、あなたです父上」
「それで、どうだったのじゃ・・・・?『あれ』の味は?」
ニヤーッと笑った顔には、完全な狂気が宿っている。そこに威厳ある王の面影は無い。
「まだ言うか!」
切断された五本の指が、ばらばらと床にこぼれ落ちた。
「ひぐーっ!痛いー!痛いよーっ!」
指の無い掌を、もう片方の掌に包みこむと、うずくまり、子供のように泣きじゃくりながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「し・・・・しかし」
停止すると、懲りずにゼウスを再び見上げ、言った。
「わかる・・・・わかるぞ、お前の気持ちは。
あの快楽を一度味わえばな・・・・せめて・・・・」
その眼が遠くを見るように細まる。人生最後の
欲情の輝きを宿す。
「せめてもう一度、あの白い肌に触れる事が出来れば・・・・」
次の瞬間、クロノスの首が切断され、ごろりと床に転がった。
その髪を掴むとゼウスは窓辺に歩み寄り、見上げる群集に示すように、クロノスの首を高く持ち上げる。
今や群集の興奮はピークに達っしていた。


ゼ・ウ・ス!
ゼ・ウ・ス!
ゼ・ウ・ス!
歓呼する群集に向かって、生首をほうり込むと、
叫んだ。
「我に従え!!」

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