《MUMEI》

 先程のたぶだぶ男が、カウンターに本を持ってやってきたのである。しきりに顔の汗を拭いながら出したのは、百円投げ売りの文庫を何冊かであった。
 男はチノパンの尻ポケットに入れた財布から千円札を取り、差し出しながら咲良の顔を見つめた。受け取った札は、汗でじっとりと湿っており、思わず早々にレジの中に放り込んでしまう。硬貨を渡すとき、袋に入れた商品を手渡すとき、男は触れた手に必要以上に力を込め、視線を外さず彼女の顔を見続けていた。
 非常にやりづらいなと、だぶだぶ男の尻を見送っていると、開けっ放しの自動ドアから、晶がにやにや笑いつつ顔を出した。様子を見ていたのだろうか。
「気をつけろよな」
「何に」
「あの常連」
 晶はカウンターの前までやってくる。レジ台に積み上がった未処理書籍の山の一角を、ずらして端に移動させた。目の前の景色が暑苦しかったのだろう。
 古書店の宿命であると言えるだろうが、明らかに室内の紙質量が暑さを増幅させている。
「加納さんのレジしか並ばないだろ、彼」
「何それ」
「いねぇと買わないで帰っちまうし」
 それをこちらでどうしろというのか。
 咲良の心中メーターの針が振れる。只でさえ暑くて気が立っているのである。
「ちょっとでも笑いかけたら勘違いされっから。その気がないなら笑うなよな」
 針の振れが勢いを増す。
 なぜそんなことを言われなければならないのか。
 おまけに本当に心配されているのではなくて、完全に面白がっている顔で、である。
「何で」
「ああいうの店員の反応、期待してんだからさ。エロ文庫混じってたろ?恥ずかしがったり、赤くなったりしてみ。できれば可愛く。大抵は奴ら大喜びだから。まぁ、今更、加納さんにその辺の期待を俺はしない」
 最後の言葉で、彼女の中の何らかのメーターが振り切れた。

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