《MUMEI》

「面白そうな話だね」
 急な声に驚いて、しゃがんでいた腰を浮かせてしまった。
 この暑いのに、シャツのボタンを上まで留めて、白い麻のスーツを身に着けた若い男性が佇んでいたのである。頭の上には同じ白の気障なパナマ帽が載っている。
「失礼。その女性はどこに行ったんだい」
 帽子を取った頭は、びっちり整髪料で固められていた。将来は禿げるだろう。
「下の喫茶です」
「何、カフェ?急がねば。では失敬」
 咲良と晶が視線で語り合ったのは何であったか。
 彼女が告げると、男は気障に帽子を被り直し一礼すると、一気に走り出す。ところが、何故だか開けっ放しだったはずの自動ドアが閉まっており、ガラスにそのまま激突してしまった。
 何なんだこれは、と地団駄を踏んでパナマ帽男が叫ぶ。引き戸なので、手のひらを着くと簡単に動くのだが。慌てて開いて、彼が飛び出すと、階段を駆け下りて行く音が鳴り響いた。
 冷静なのは見かけだけで、内心は恥ずかしながら、とても穏やかではなかったらしい。
「旦那だな」
 咲良が黙って顔を向けると、何も言わない内に晶が断言した。両者、意見は見事に一致していた。恐らく一階は修羅場であろう。
 二人は顔を見合わせると、キチキチ堂店番を放り投げ、喫茶店へと向かった。
 何せ修羅場なのである。熱い火蓋が切って落とされるに違いないのである。
 一目でも見てみたいというのが、人情であろう。
 はたして。

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