《MUMEI》
第1章
見知らぬおじさんが、何かを叫びながら大きく手を振っている。たぶんあいつが言いたいことは、
「危ないから早く引き返せ」
とか、そんな意味合いのことだろう。

俺は今、川の中に突っ立っている。12月の極寒の時期に。それも、子供が遊ぶような浅いところじゃなくて、膝がギリギリ見えるか見えないかぐらいの、それなりに深いところだ。
釣りをしに来た訳じゃないし、落とし物を探しに来た訳でもない。もちろん遊びに来たのでもない。

そう。俺は、死ぬためにここへ来た。

あのおじさんは、まだ大声を上げている。あんなに声を枯らしても、無駄だというのに。お節介な奴だ。

もう少し深いところまで行けば、足がつかなくなるはずだ。川の流れに身を任せてしまえば、あとはもう、身体が冷たくなっていくのを待つだけだ。

俺は1歩を踏み出した。また1歩、1歩と、川の奥へとどんどん進んでいく。
不意に足がつかなくなり、よろけると思ったときにはもう、波に乗ったあとだった。この川は流れが速いから、掴まるものがない川のど真ん中では、川の流れるままに進んでいくだけだ。

急に寒気が襲ってきて、俺は思わず身震いしてしまった。バカだな。死ぬためにここへ来たのに、何を今更ビビっているんだ。

家族が帰ってくる前にと思い、夕方のうちにここへ来たが、あれからだいぶ時間が経ち、とっぷりと日が暮れている。
月明かりに照らされた俺の身体は、当然のように指先まで凍えきっている。水の冷たさも感じられないぐらいに。
頭もだんだんぼうっとしてきた。

ああ……。やっと俺は死ねるんだ……。

そう思った瞬間、突然バランスを崩して、川の中に引きずり込まれた。鼻からも口からも水が入り込んでくる。

苦しい……。息ができない……!
そうか……。俺は本当に死ぬのか……。
いや、いいんだ、これで。ずっとこの日が来るのを待ち望んでいたではないか。
そう思う俺とは裏腹に、身体は勝手にもがいていた。新鮮な酸素を求めて、必死に水をかいている。だが、水を含んでずっしりと重たくなった衣服が身体にまとわりついて、俺を水面へ出させようとしない。
しかし、そんな俺の身体にも、遂に限界が来た。
体内に残っていた空気をガボッと一気に吐き出すと、そのまま暗くて冷たい川の底へと沈んでいった。

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