《MUMEI》

 辺りは静寂に包まれていた。先程まで山中に騒々しく響き渡っていた作業の音が止んでいる。振り仰いだ頭上の雲一つない青空を、鳶が間の抜けた声で鳴いて飛び去っていった。
「やっべぇな。間に合わなかったか」
 口に出した言葉とは裏腹に、呑気な雰囲気の男が散歩でもするような足取りで山道を登っていた。古びた錫杖を手にしているのだが、流した着物の胸元をだらしなくゆるめた姿は、仏に仕える者には到底見えない。一体何者なのか。
 男が目指しているのは採石場である。石工たちの休息時間までに辿り着きたかったのだが、駄目だったようだ。すでに日は正午を過ぎている。
 日差しが照りつけ、汗が流れた。全身に汗をかきながら進み、ようやく開けた場所に出る。石切り場には多数の人間の気配があったが立っている者の姿はなく、皆がなぜか横になって眠っていた。
「お疲れでしょう?さぁさぁ、力をお抜きになって。あたしが肩を揉み解して差し上げますから」
 平らで巨大な石の上に一人の石工がうつ伏せになっていて、蕩けるような声で女が話しかけながら、その背中に覆いかぶさっている。茶酌み女だとしても異様な光景であった。
 余程気持ちがいいのか石工は、半分眠りの世界へと誘われてしまっているのだが、着物をもろ肌に脱いだ背中の皮が剥けて血塗れになっている。よく見ると、地面で気持ちよさそうに眠っている石工たちの背中は例外なく、血で真っ赤に染まっていたのだ。
「ねぇさん。今度は俺にやってくれないか」
 男がかけた声に振り向いた女は、恐ろしく美しく顔をしていた。
 その顔の眉間に、惜しげも躊躇もなく素槍の穂先が突き刺さる。
 じゃらん
 錫杖の卒塔婆形部にぶら下がった幾重もの輪が、重い音を発てる。
 ば、ばきん
 遅れて、人体ではあり得ない大きさの硬質な音が石切り場に響いた。続いてさらに重い音。
 槍で顔面を貫かれたはずの女の姿は瞬時に跡形もなく消えており、石工が上で眠る巨大な石が真っ二つに割れている。
「やれやれ。もう一仕事だ」
 先端に槍が仕込んであったらしい錫杖を、男は慣れた仕草でくるりと廻して元の形状に戻す。やがて、次々に目を覚ます、負傷した石工たちの手当てを始めた。

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