《MUMEI》

 帰リタイ。……早ク、帰リタイ
雑音の様な音が直接頭の中にに響いてきた
頭の深い処で聞こえているソレは痛みさえも伴い
乾は小さく呻く様な声を上げ、ゆるり眼を覚ます
「お目覚めかしら?」
嫌な声を傍らで聞き警戒しようと身を起こそうとするが出来ない
どうしたのか、様子を伺って見れば
全身に大量の糸が絡みつき、乾の身体を拘束していた
「哀れね。これであの子たちは何処にもいけない。標を失ってしまったんだもの」
さも嬉しそうに呟きながら、相手は乾の方へと歩みよっていく
「……このまま、標糸なんて無くなってしまえばいい。無くなってしまえば……!」
途端に表情を苦く変えたかと思えば、相手はゆるり唇を開き
徐に乾の手首を掴み上げると、その指の付け根に歯を立てる
無くなってしまえばいい
その言葉通り、指を食い千切られそうな程の痛みを感じ
また意識を失い掛ける
だが、カエリタイと訴えてくる多くの声に、それすら叶わなかった
「……帰して、やれよ」
ソレを何とか伝えてやるが、相手は聞く耳など持たず
まるで子供の様に嫌々をするばかりだ
「……あの子がいるかも、しれないの。あの影達の中に、あの子が……!」
以前にも口にしていた(あの子)
一体誰のことなのか、乾には解る筈もなく
今、この現状をどう打破すればいいのかにばかり思考を巡らせる
「……五月、雨」
考えてはみるが自分ではどうする事も出来ず
結局、縋ろうとしてしまっている自身が情けなかった
「所詮は、ヒト。何ができる訳でもないのだから諦めればいいモノを」
嘲る声と共に、指の痛みが増す
激痛に耐え兼ね、喉が引き攣った様な息の音を出した、次の瞬間
「……標糸を、返せ」
聞き馴染んだその声が、聞こえ
乾の身体は糸の群れから解放された
すっかり馴染んでしまったその体温に、乾は安堵に肩を落としていた
「……五月雨」
「すまんかった。これを探し出すのに存外時間がかかってな」
そう言いながら背から降ろしてきたのは
乾は初めて見るあの子供だった
「……お前が探していたモノはこれだろう?」
子供を確認させてやる様に前へと押しやってやれば
相手の表情が俄かに変わる
「……猫。貴方、この子を、何処で……?」
「この子供はずっとお前を探して折ったよ」
「この子が、私、を?」
「お前は、迷い出てしまったこれを探していた。その途中、余計な者達まで引き込んでしまった様だが」
淡々と五月雨の説明は続く
「親子共々、もう迷い出てくれるな」
迷惑だと最後に吐き捨てると、五月雨は高々と尾を立て
その先には五月雨が依然持っていた扇子が器用に握られていた
ソレを一扇ぎすれば、辺り一面に在った影達が一瞬にその姿を失い
黒い霧の様な形ないソレへと変わると一処に集まっていた
「……一緒なら、寂しくはなかろう。引連れて帰れ」
「猫……」
「温情を掛けてやるのは今回限りだ。次は全て喰らい尽くしてやるからな」
牽制してやりながらも穏やかな声色
五月雨は逝くべき道を示してやるかの様にそのその尾で北を差す
「……これで、良かったのだろう?小娘」
約束は果たしてやった、と僅かに表情を緩ませれば
少女は子供らしい満面の笑い顔
「……ありがと。約束、守ってくれた」
有難う、と何度も言いながら
少女は五月雨の尾を愛おしげに抱きしめる
「……私達を、無事に導いて。もう、迷い出る事が無い様に」
お願い、と強い意志を向けられ
五月雨は勿論、と頷いて返していた
これ以上、手を煩わされるのはまっぴらだと悪態を吐きながらも
その表情はやはり穏やかなソレだ
消え逝く瞬間、少女は乾へと僅かに向いて直り
僅かに笑みを浮かべながら
「バイバイ。……ごめんね」
手を振りながら、その姿は段々と消えていった
後に静けさばかりが残った其処
陽がいつの間にか暮れきったのか、五月雨もすっかりヒトの姿
暫く無言のまま二人はその場に立ち尽くす
「……迷惑、掛けた」
長い沈黙を先に破ったのは乾
謝罪の言葉を向け手やれば、瞬間五月雨は驚いた様な表情
そしてすぐに肩を揺らして見せる
「標糸に手を焼かされるのには、慣れているからな」
声に笑みを含ませてはいたが、その言葉はひどく寂しげに乾には聞こえる

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