《MUMEI》

 高層階から昇降機で下層階へと一気に滑り降りる。
 狭い密室の吹き抜けた天井から、遠ざかっていく濁った空を仰いで、欠伸を一つ。
 空には幾重にもなった厚い雲が垂れ込めて、全ての未来を塞いでいるようだ。
 彼女が生まれる遥か以前からの事象である。
 関本克深は、薄暗い路地を抜けて歩き出した。
 往来は猥雑で雑多な有機物で溢れている。
「皆、塩素剤でやられてしまえばいいのに」
 誰も耳を澄ましてなぞいない。まるで、妄想症の患者のように呟いてみる。
 彼女は紅い色の小さな鉱石を片耳だけにしていた。何もない方の耳をふいに片手で塞ぐ。言霊の呪いなのか、耳鳴りがしたのだ。
 克深は往来の路上で思わず立ち尽くしてしまった。
 すれ違う人たちが、ゆっくりと、こま送りの映像のようになって見えた。
 自分一人だけが時限の狭間に取り残されて、世界は一枚薄い膜の向こうに存在している。目の前で全てが透けて見えるのに、手は届かない。
 学生時分、真昼の教室で、時折訪れる奇妙な静寂を何と呼んでいたのだったろうか。
 ぼさっとするな。
 年輩の男が歩みを止めた克深の背中にぶつかって、我に返る。人物は彼女を追い越して人波に紛れ、すぐに見えなくなった。
「廃校、高台、真夜中、みなみのうお座」
 手のひらに、男が残していった赤い色の畳まれた紙片を見下ろす。慎重に開いて、小声で読み上げた。
 黄昏時、職業難民の就職活動の場となっている往来の路上は、目先の仕事を求める人間ばかりだ。

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