《MUMEI》

 季節は、初秋から冬へと移り変わっていた。
 往来では、冬支度がすでに済んでいる。
 克深は、寒そうに急ぐ人いきれの中を歩いていた。
 …‥電話接待業務。高給、約束します。今すぐ、こちらにお電話を!
 すれ違った仲介人に渡されて、手にした番号が書いてある求人札に目を落とすが、くしゃくしゃに丸めて投げ捨てる。
 職業難民には高給職の定番だが、克深には食指が動かない種類の仕事であった。今夜は無為な行為となる可能性が高いが、彼女は、もうしばらく往来を歩くつもりであった。
 雪が降り出しそうな寒さに、相変わらず厚い雲で覆われた空を見上げる。
 気圧の変化なのか、耳鳴りがして、往来で立ち止まっていた。
 邪魔なんだよ。
 年輩の男が克深の背後から、ぶつかった。目で追う間もなく人波に紛れると、すぐに見えなくなる。
「BAR海の底、給仕募集!!時給休日出勤日数等、要相談」
 手のひらに残った紙片を読み上げる。丁寧に求人札を折り曲げると、彼女は懐に納めた。
 札に書いてあった店を克深は知っていた。
 確か、すぐ近くの地下階段の先にある店舗だったはずである。
「そろそろ新規開拓しなきゃ、ねぇ」
 初秋に始めた、蔦の葉と蔓に絡まれた煉瓦造りの建物での仕事は、以降、数回の勤務後に終了していた。
 問題があったのではなく予定通り、元々、冬までの契約であったのだ。
 紅い鉱石は彼女の片耳で輝いている。
 黒縁眼鏡の男が見つけていて、返してくれた。
 季節が変わってから克深は、あの蔦煉瓦の建物に一度も足を運んでいない。
 高台の廃校には、何度も行っているが、丸まった高い背中の姿を見ることはなかった。

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