《MUMEI》

 様々な事象が物理的にかみ合っていないし、それを男は疑問にも思っていないのだ。
 何故、希少な可能性のある商品を、場末の宿に売り払ったのか。始めから事情を話していれば、いくらでも値を吊り上げられただろうに、そうはしなかったのである。
「そりゃあ、イシユミには普段、世話になっているからな。ここいらで、一丁お返ししとかなきゃなと、思った訳よ」
 恩返しがひどい仇にならなきゃいいけれども。
 イシユミの呟きは、黒眼鏡の男に届かなかったようである。
 机の上の杯を空けると、男は酔うには気が早いだろうに、ふらふらとした足取りで、宿屋から姿を消した。
 彼の背中を見送って、あの男は本当に宿の常連客だったろうかと、イシユミは、ふと考えた。
 白昼の不可思議な思考を忘れるほど、途切れぬ宿の客の世話を夜更けまで、イシユミは独楽のようにくるくると宿内を廻り続けた。
 ようやく糸に巻きつけられたのは、就業の定刻を、とうに過ぎてからである。
 しばらく、誰も下宿を訪ねて来ることはなく、イシユミは仕事を終えて下宿に戻ると、食事を満足に摂る気もなく、眠りに落ちてしまっていた。
 突然の宿の賑わいが、いい加減に落ち着いたころ。 タカイチも忙しかったのだろうか。
 数日ぶりに彼はやって来て、何杯かを一緒に呑んだ。
 疲れに、酔いの所為なのか夢うつつで、いつの間にか、イシユミのなけなしの意識が飛んでいた。

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