《MUMEI》
5
「はぁ…全く。怪我はないかい?」

「……あ…うん…」

「ならよかった。戦闘前に怪我されちゃ困るから」


ドクドク、と痛い程鳴り響く心臓の音がゆっくり引いて来た所で、顔をうつむかせたまま聞こえるか聞こえないかの声で、

「……その、…ありがと」

「別に礼を言われることをしてない。ほらさっさと立って」


……可愛くないなぁ。
さっきとは別人のような冷たい態度に、鼓動が驚く程静まって、はぁとため息をつく。

少し服が汚れてしまっていたので腰の辺りを払って、今度は二の舞を踏まぬようにきちんと足に重心をかける。


「今ので少し時間を食った。急ごう」

独り言のように呟いた霊は、くるりと振り返り突然私の手を掴んできた。
えっ、と思う暇もなくなんと音も無くぴょい、と隣の屋根に飛んで見せた。

勿論、私の手を引きながら。


「ぎにゃぁぁぁぁぁ!?」

暴れる私に構わず、身軽に隣へ、隣へと屋根を伝って飛ぶ。

ひとっ飛びで、隣のアパートの屋根に飛び移ったかと思えば、次は一軒家の赤い屋根に着地する。


そしてまた助走をつけて、高く高く天へ向かって上昇する。

下を見れば、さっきより何倍も高い所で飛んでいて、急に先程の恐怖が蘇って来る。
また落ちるのではないか、という思考が自然と体をこわばらせる。

落ちる…?

そう考えると、体が鉛で出来たように芯がずしりと重くなる。
怖い一一脳にはその単語がぐるぐると巡り、霊にしがみつくように体をぎゅう、と縮めてしまう。

「奈子!もっと力を抜くんだ!! これじゃあ浮力が足りない!」
冷たい向かい風が押し寄せるのに抗うように、霊が大声で叫ぶ。


風で呼吸が阻害されながらも、気流を避けるように顔を傾けて答える。

「む、無理だってっ、こんなの……」

「一番の難敵は“恐怖”! 大丈夫僕がいるから力を抜けッ!!」


怒鳴り散らすような大声は、会ってから初めて聞く。
かなり焦っているようだ。
確かに高度もぐんぐん下がって、隣の屋根に飛び移る前に2人共落下してしまう。


別に、恐怖心が消えた訳じゃない。
でも今自分が勇気を出さなかったら、今度こそ最悪の事態になってしまうから。


どうせこのままでは落ちてしまうなら。

難敵は“恐怖”。その言葉を思い浮かべて、ほとんどしがみつくような体勢から、覚悟を決めふっと力を抜いた。

上がっていた肩が下がり、縮めていた手足が脱力してぷらりと風に吹かれる。

すると驚くことに、体が体重が半分になったように軽くなったのだ。
空中に漂い続ける綿のように、滞空時間が長い。

ビックリして霊の方を振り向くと、満足げに口元を上げているのが見えた。


「そう、出来るじゃないか。ほら、景色」

そう言われて、外の景色に目を向けた。
するとそこには一面の夜空に小さく瞬く星が、明暗をハッキリさせていて、色とりどりの街灯がその夜景に混ざり合って、綺麗なコントラストを描いている。


「わぁ……」


いつもなら決してこの高さから見る事が出来ない、初めての景色に恐怖も忘れて、思わず目を奪われた。


気付けば、もう隣の屋根に足が着いていてはっと我に返る。
きっと霊は恐怖を和らげてくれようとして、景色を見させてくれたんだろう。

いつも飄々としてるが、何だかんだ言って優しいのだ。この魚は。


くす、と思わず微笑を浮かべて心の中で礼を言う。どうせありがとって声に出したって減らず口叩くから。


「何笑ってるんだ? ほら、次は君の番だよ」

「へっ?」

「だから、次は君が一人で飛ぶんだ。今のは練習」


………前言撤回。

やっぱり、霊は優しくない。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫