《MUMEI》

 結局、あや香の無駄話につき合っていたところ。
「或る意味、狩人だからね。数奇屋くんは。で、ブツはどこ?」
 事務所の入口に背を向けた光基の後ろから、急に手が出て、頬を摘まれた。
 所員の加宮春歌であった。外回りの仕事から、戻ってきたのだ。
 あや香がお茶をいれに立ち上がる。
 外では、本格的に雨が降り出したらしい。
 春歌の上着の肩先が濡れており、光基はタオルを探すべく、洗面所付近へと所内を移動した。
「数奇屋くんに誘われなかった?」
 タオルを持って戻ると、彼女は、もう上着を脱いでしまっていた。
 コーヒーカップを手にしていたが、ありがとうと受け取って、乱雑に頭にのせる。
 春歌は、超絶的な美貌の持ち主だが、性質は大雑把であった。
 問題はそこじゃない。
「やっぱりあの人、そうなの?」
「さぁ? え、何が」
 お互いに、会話するための主要な単語が足りてないのが明らかだ。
 釈然としない。
 成り立たない会話を置き去りに、両手が差し出される。
 仕方がないので、光基は預かってきた荷物を春歌の手へ、丁重に渡した。
「『法の精神』、確かに。さて、どうしようかな」
 啓蒙思想家モンテスキューは、法学者である。
 急いで光基が事務所に向かったのは、何も数奇屋男爵の所為ばかりではない。
 雨が降りそうだったため、預かった荷物の状態を気にしたのである。
 何せ、題名も透けるような薄い紙に包んであるだけの、古書だったのだから。

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