《MUMEI》

「あや香、後、頼むね。光基くん、連れて行くよ」
「はいはい。足元、気をつけて。所長か博田くんか、戻ったら伝えとく」
 古書が濡れないように梱包して、鞄に詰めた春歌が歩き出す。有無を言わさず光基が一緒に行くことになっている。あや香も、二人を見送る体勢であった。
 赤い傘と、透明ビニールの傘が二つ並ぶ。
 光基が文句も言わずに黙ってついてきたのは、話が途中だったからである。
 春歌の説明によると、それが古本屋キチキチ堂に出たのは、暑い夏の昼下がりだった。
 学生が夏休みに突入する時期、古本屋の冷房装置は故障していた。
 暑さに耐えられず、店主が一階の純喫茶で涼んでいると、着物美人が仕立ての浴衣を届けにやって来た。
 その彼女は、店内に置かれた古書の中から、抜け出てきた人物だったのだと言うのである。
「何それ? 誰に聞いたんだよ、そんな話」
 単に浮気の発覚を恐れた古本屋店主の、体のいい言い逃れだったのではないだろうか。
 彼が既婚なのか、誰に対する言い訳なのかは、不明だが。
「留守番中のアルバイトくん。店長が不在でさ」
 着物美人を見たというのは、男女一人ずつのアルバイトだったと言う。
 どこか遠方に湯治に行った店主の代わりに店番していたのは、その男だけであった。
「古書の内から抜け出ることが、できるならば。外から入り込むことだって、可能なんじゃない?」
 失踪した犬が古書内に迷い込んだのだと、飛躍した解釈で説明するつもりなのだろうか。
 揚げ足を取るようだが、法則を前提にすると、内と外の質量は均等でなければならない。
 SFの世界では、均衡が崩れると矛盾が生じるというのが相場だ。
 即ち平行世界の存在。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫