《MUMEI》
2
すっかり暗くなってしまい、ちっぽけな街灯がぽつりと点灯する。
しかし暗闇が広がる夜空に対し、灯りは数十メートル間隔に配置されてるのみで、てんで意味がない。

仕方なしに闇を縫うように歩きながら、ちらっと腕時計を見る。
蛍光塗料で塗られた文字盤に映し出さたのは、既に午後7時を過ぎている。


特に門限は定まっていないが、夕飯は6時半からなのでその前には帰って来ないといけない。


今日は夏川の事があってか、帰りたい気分ではなかった。
夏川が気になるとかそんな幼稚な理由ではない。
もっと心の奥底から湧き上がる、憎悪のような苛立ち。


いつの間にか、家の門の前にいた。
馬鹿みたいにデカい玄関門で、母と、俺ともう一人の3人にはとてつもなく大きい洋風に、ちょっとした豪邸が佇む。


募る激情と、その表面上だけ繕ったような我が家にため息が漏れる。
仕方なく格子のような門を開き、家の重厚のある扉を開いた。


ただいまを言う気も失せ、そのまま逃げるように階段を登ろうと足を乗せた時だった。

奥のリビングから、まだ20代後半に見える若さを感じさせる母が、整った顔をしかめたながら姿を現した。


「……お帰り。遅かったわね。お父さんに挨拶なさい」

腰まである巻き髪を揺らして、リビングへ戻って行く。



……タイミング悪いな。
こんな時に限って、アイツが早く帰宅するなんて。
抑え切れずチッと舌打ちする。
幸いにリビングまで届かなかったようだ。

無視してしまおうとも思ったが、今後の事も考えて仕方なくリビングに足を踏み入れた。


リビングには、ひとつひとつが何十万とする優美な装飾が施された高級家具が、嫌でも目につく。


デザイナーが見たら感嘆のひとつ漏らすであろう手の込んだ作りだ。
その家具に挟まれるように、ガラステーブルにつき新聞を広げる“アイツ”の横顔が見えた。

「……遅かったな上総。挨拶はどうした」
低い、絞り出される声は、腹の底に響いて心臓が跳ねる。
足がすくみそうになるのを自制し、頭を下げた。

「…只今、帰りました」


ふん、と鼻を鳴らし新聞から目を離した。
掴まれた心臓の力が緩んだような気がして、思わず安堵で息を吐く。


「上総、お前はもう高校生だ。時間調整位自分で管理出来ないのか」

静かな怒りが単語の一語一語に感じられる。


「……生徒会の会議が長引いてしまって」

何とかそれらしい嘘を吐くが、コイツには通用しないのはとっくに学習済みだ。


「くだらん言い訳を並べるな。今後このような事が起きたら会長なんぞ辞めさるぞ」

「……申し訳ありません」

「夕食は既に終えたぞ。食べるなら勝手にしなさい」

また、新聞に目線が移ったのを確認して、


「いりません。失礼します」

今度こそ聞かせるように、盛大な舌打ちをし、逃げるように階段へ駆けた。

上総!!と母の怒声が背後から飛んで来たが、振り返る勇気もなかった。


自室に入るなり、すぐさま鍵を閉める。
無駄に広く、黒で統一された部屋に沈黙が支配する。

無意識に壁に鞄を投げつけて、ベッドに倒れ込んだ。

耳障りな鞄と壁の衝突音が、逆立った神経を刺激する。
仄かに香る、フローラルの匂いがする柔らかい布団にまで八つ当たりしたい気分だ。


「父さん……」

震えて喉でかすれた声は、シミひとつない純白なシーツに吸い込まれてった。

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